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2008年07月22日

【考察】我々が逃れなれないモノ・中編

つづき

かのヴィトゲンシュタインの著「論理哲学論考」において有名な言葉を残している。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
これはヴィトゲンシュタインが初期に目指していた「思考の限界」を示すことなのだ。

前記事で書いた
『根本的なことを何も説明できず、理解できない』
つまり人は死について語りえぬものについては、沈黙せねばならない思考の限界というわけ。
ではどうだろう?語りえないが示されるものも存在するのは何故だ?
それはきっとボクが青二才の頃に考えた言葉だが「内在世界の理」だ。

二十歳ちょいの青二才がいっぱしにも世界の存在について考えて、ある解答1を組み上げた。解答は無限にあるがね。
「私」という世界の存在について

外的要因に晒される 外在世界。
自己内在における事象 内在世界。
そのどちらも「私」の世界にのみ存在する。
両者は似て非なるものでありながら同一でもある。
それはこういうことだ。
食事をする、TVを見る、音楽を聴く。
これらは外的要因であり、自己内在において発生している事象ではない。
事象とは外的要因をきっかけに発生する投影なのだ。
つまりはこういうことだ。
「食事をした」と体感するのも、「TVを見た」と体感するのも、「音楽を聴いた」と体感するのも、
全て外的要因が「私」の「心」に投影した事象である。
又、自己以外の他者と外的要因は共有できるとしても、
他者の「心」に投影されたものは自分には完全には事象の共有を計れない

結局、外在世界と内在世界は異なる存在でありながら、繋がっており、片方が欠落するだけで「私」の世界は存在できない。
故に両者は似て非なるものでありながら同一でもある。

と、ここまでで青二才は語りえぬものについては、沈黙せねばならなくなりました。
が論理哲学論考を読んでいるうちに「ある」ことに気づきました。
「―――世界は成立していることがらの総体である」
我々は世界に存在する数多くの物を、ただのモノではなく、"事実"として受け止める。
そして我々はその事実を細かくモノの個性や性質や関係性に解体し、それらを心の中で再結合することで、この世界を理解する。
ヴィトゲンシュタインが"事態とは諸対象(モノ)も結合である"と唱えたことだ。
これらと青二才が唱えた内在世界と外在世界を組み合わせると、
先ほど説いた「語りえないが示されるものも存在するのは何故だ?」がおぼろげながら見えてきた。
おそらくは内在世界での解体、再結合が行われる「心」と便宜上呼称する部位にこそ「語りえないが示されるもの」なのだ。

前記事とこの記事を組み合わせて本題とも言うべ我々が逃れなれないモノ、「死」について個人的な考えを述べたい。

ごめん、つづく




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Posted by 屍 at 04:37│Comments(0)考察
 
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